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中川一政について

なかがわ かずまさ/NAKAGAWA Kazumasa 1893-1991
 中川一政は、1893(明治26)年に東京・本郷に生まれました。少年期から詩歌への関心を深め、10代で短歌や散文を新聞や文芸誌に発表し、また20代には詩集が刊行されるなど、文芸の才能が認められていました。こうして詩人として世に出た一政ですが、旧制中学を卒業後は自分の進むべき道を見つけることができず、煩悶の日々を送っていました。そんな彼に転機が訪れたのは1914(大正3)年、21歳のときです。初めて描いた油絵《酒倉》が巽画会展で入選し、翌年の同展では《霜のとける道》(1915年)が最高位二等賞に選ばれ、画家の道を歩み出します。

 

《中川一政氏》1923年 野島康三撮影
京都国立近代美術館蔵
Photo:The National Museum of Modan Art,Kyoto

 1915(大正4)年、巽画会の洋画部審査員を務めていた岸田劉生を中心に発足した草土社に加わり、その後は二科会にも出品、21年には《静物》ほかで二科賞を受賞しています。画は独学でしたが、当時、美術文芸誌『白樺』によって紹介されたゴッホやセザンヌの作品に触発され、直向きに描いていきます。また、この頃白樺派の人々とも知遇を得て、武者小路実篤との親交は生涯続きます。
 1922(大正11)年29歳のとき、草土社と旧院展洋画部が合流して設立した春陽会に参加し、以降は同会を中心に作品を発表していきます。また、30歳代から40歳代にかけては、新聞連載小説の挿画や本の装丁を数多く手掛け、また随筆を能くしました。

《中川一政写生之図》1925年頃 野島康三撮影

京都国立近代美術館蔵

Photo:The National Museum of Modan Art,Kyoto

 戦後間もない1949(昭和24)年、56歳になった一政は、神奈川県真鶴町にアトリエを構えて、湯河原の小さな漁村・福浦の連作を始めます。約20年間続く〈福浦の時代〉のはじめには、絵の具を重ねては削ることを繰り返した厚塗りの画面が見られ、この時代の一政の暗中模索を物語ります。一方で、長崎や桜島、瀬戸内、またヨーロッパの風景も描いていき、1960年代以降徐々に独自の様式を確立していきました。
 1967(昭和42)年、74歳のとき、一政は新たな題材に箱根の駒ヶ岳を選びます。〈駒ヶ岳の時代〉と呼ばれる90歳を過ぎるまでのおよそ20年間、渾身の作品がここで生み出されます。画をかき始めた頃から一貫した必ず現場で描くというスタイルを貫き、100号の大作も現場で描かれました。描く対象から受ける感動をその場で表現するからこそ、そこに生きたタッチが生まれるという信念です。
 また、野外での制作の一方、画室で数多く描かれたのが薔薇や向日葵、椿などの静物画です。これらは、主に50歳代後半から手掛けるようになりますが、殊に晩年に力を注いで描かれた画題です。年を経るに従い、ますます躍動感を増していく画面からは、一政の常に自己革新を目指す姿勢が伺えます。

駒ヶ岳を描く中川一政 1981年 南川三治郎撮影

 こうして、1975(昭和50)年、82歳のとき、豊潤な色彩に豊かな生命力を漲らせた画風が近現代の画壇に独自の世界を拓いたとして、文化勲章を受章しています。また晩年は、水墨岩彩や書、また陶芸など幅広い分野にも比類ない境地を確立し、多くの作品を残しています。それら全ては独学によるものでしたが、古今東西のあらゆる芸術から学び、自得の精神で陶冶された太い幹から伸びる枝葉であり花であり、結実であるといえます。
 1991(平成3)年、97歳で亡くなる間際まで精力的な制作活動を展開した中川一政の芸術は、没後四半世紀を越えた今も多くの人の心を捉えています。

文化勲章受章者 1975年(中央 中川一政)

 東京に生まれ育ち、戦後は神奈川県の真鶴にアトリエを構えた一政ですが、両親は共に石川県の出身で、父政朝(まさとも)は金沢の刀剣鍛冶松戸家の出、そして母スワは松任(まっとう)の農家清水家の娘です。こうした縁から、1986(昭和61)年、一政93歳のとき、母のふるさと・松任市(現 白山市)に作品が寄附され、最初の個人美術館が開館しました。

家族と 1904年

(左 中川一政 と中央 父政朝)

母スワ 1901年

中川一政 略年譜 1893(明治26)年 - 1991(平成3)年

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