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ふるさとデジタル紙芝居

「松任城と手取川の戦い」

    • 戦国時代、わたしたちの祖先が活躍した松任城を知っていますか。

      加賀の国の人々は、一向宗(いっこうしゅう)と呼ばれた浄土真宗(じょうどしんしゅう)の教えを心の支えとし、信仰(しんこう)と自由を守るために戦っていました。

      南に北に加賀を侵略(しんりゃく)する敵の軍勢を追い返そうと、金沢御堂(かなざわみどう)や松任城から出陣していたのです。加賀は武士を巻き込んで、僧・武士・農民や商人らが、話し合いをして治める国を形作っていました。その支配の姿を石川郡清沢(せいさわ)(現在の鶴来町)の願得寺実悟(がんとくじじつご)は『実悟覚書(じつごおぼえがき)』に、「百姓ノモチタル国」と形容しています。信仰の中心地として設けられていた金沢御堂(かなざわみどう)には、浄土真宗本山の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)から僧と坊官(ぼうかん)(武将・本願寺家臣)が派遣されていました。

      戦国大名の戦いの時代、尾張(おわり)の織田信長(おだのぶなが)が越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を滅ぼし、加賀へ攻め入って来るのです。そこで大坂本願寺(おおさかほんがんじ)は、長年敵対(てきたい)していた越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と同盟して加賀の国を守ろうとします。

      松任城は、手取扇状地(てどりせんじょうち)に築かれた「松任組(まっとうぐみ)」の拠点(きょてん)でした。城主は有力寺院松任本誓寺(ほんせいじ)一族の武将鏑木頼信(かぶらぎよりのぶ)です。鏑木氏とは、石川郡随一の強力な戦力を持つ「松任組(まっとうぐみ)」を率いる旗本(はたもと)です。

      時は戦国時代、今から400年余り前のころのことです。人々は武士による横暴な独断的支配(どくだんてきしはい)を拒(こば)み、自らの力で信仰と自由を守るために一所懸命(いっしょけんめい)に生きた時代。日本の歴史に燦然(さんぜん)と輝く加賀一向一揆(かがいっこういっき)の物語です。

      松任城の中心部は、今も城址(じょうし)公園として、わずかにその面影(おもかげ)をとどめています。

    • 登場人物(武将)

      大坂本願寺坊官(おおさかほんがんじぼうかん)
      家臣/下間頼純(しもつまらいじゅん)(加賀一向一揆総大将、金沢御堂(かなざわみどう)総司令官)七里三河(しちりみかわ)(金沢御堂総司令官)・若林長門(わかばやしながと)(金沢御堂軍事指揮官)
      加賀一向一揆武将/主人公=鏑木頼信(かぶらぎよりのぶ)・同勘解由(かげゆ)(松任組旗本・松任城城主)
      /鈴木出羽守(すずきでわのかみ)(山内組旗本(やまのうちぐみはたもと)・鳥越城主)

      戦国大名/尾張織田信長(おだのぶなが)・越前朝倉義景(あさくらよしかげ)・越後上杉謙信(うえすぎけんしん)
      織田家家臣/柴田勝家(しばたかついえ)(織田北陸方面軍総大将)

      (註)・・・参考。(必要に応じ利用してください。不要な場合は割愛してください)
      *当時(中世)、土豪(どごう)・荘園の下級官吏(荘官(しょうかん))、農民・職人・商人・芸能者(げいのうしゃ)などは「百姓(ひゃくしょう)」と見られた。彼らは自主自律した惣村(そうそん)と呼ばれる自治の村に住んだ。戦国武将と呼ばれる連中はこの層から多く出た。加賀でも一揆の中核を占めた人々、時に武士がこれを率いた。

    • 金沢御堂(かなざわみどう)

      天文(てんぶん)十五年(1546)、加賀門徒の政教一致の政庁として設けられる。本願寺から派遣された御堂衆(みどうしゅう)(僧)・坊官(ぼうかん)(特に俗事(ぞくじ)・外交・軍事を担った)によって指導運営された。金沢坊(かなざわぼう)・御山(おやま)ともいう。

      金沢御堂を中心に寺内町(じないまち)が築かれる。町は城壁(じょうへき)・土塁や濠(ほり)に囲まれ、信仰の拠点であると同時に経済活動も盛んに営まれていた。金沢という地名はこのころから称される。

    • 「組(くみ)」とは

      江戸期「藩(はん)」の萌芽的(ほうがてき)な形態機能(けいたいきのう)。加賀四郡は「郡(ぐん)」「組(くみ)」(軍事・内政・財政)と「講(こう)」(信仰・財政)という組織で機能していた。のち「金沢御堂」が守護代(しゅごだい)的(外交・軍事・内政・財政)な機能役割を担う。「組」は本願寺が旗を与え、一人の旗本が率いた。

    • 松任城

      平野部に築かれた平城で濠が周囲を囲っていた。北国街道を押さえ、近くには手取川の旧河道が流れる交通の要衝でもある。松任氏が築いたとされるが、松任氏と鏑木氏の関係が諸説あってはっきりしない。

    • 清沢願得寺実悟(せいさわがんとくじじつご)

      蓮如の十男。はじめ兄蓮悟が住持の若松本泉寺に住した。後、石川郡清沢(現在の鶴来町)願得寺に入る。『実悟記』など多くの著述を残した。

    • わずかな留守の兵を除いて、城内は穏(おだ)やかに静まり返っていました。金沢御堂(かなざわみどう)からの命令によって、松任組が越中(えっちゅう)へ出陣したのは元亀(げんき)三(1572)年六月、暑い盛りのことです。

      触れ太鼓(ふれだいこ)が打ち鳴らされると、田植えを終えた村人は鎧(よろい)を着こみ、刀、槍を手に携(たずさ)え、松任組の兵として城へ集まってきました。城の広場で村ごとに隊列を整えると、松任城主鏑木頼信(かぶらぎよりのぶ)に率いられた軍勢は出陣し城をあとにしました。

      勘解由(かげゆ)は出陣を願い出たのですが、父頼信からは城改修と留守を任されていました。

    • (城主鏑木頼信)
      「城の改修は一刻(いっこく)の猶予(ゆうよ)もならぬ。濠(ほり)は十間(じゅっけん)(約18m)ばかりに広げよ。土塁(どるい)は二間(にけん)(約4m)まで高く掻(か)きあげ、櫓(やぐら)も組み上げるのじゃ」
      (息子鏑木勘解由)
      「櫓(やぐら)も、ですか」
      (頼信)
      「そうじゃ、広い濠に櫓を組み合わせたならば攻めるのは難(むつか)しい」
      (勘解由)
      「櫓から横矢(よこや)を射(い)るのですね。城づくりには、沢山の材木(ざいもく)も要(い)りますが」
      (頼信)
      「剱(つるぎ)(鶴来)村から取り寄せよ。すでに話は通してある。材木は改修した用水で城近くまで運ぶのじゃ。さすれば、わずかの人手で多くの材木が用意できよう」
    • 五月、田楽(でんがく)の囃子(はやし)に合わせ、松任の村々では盛んに田植えが行われていました。田植えを終えた村々から、城の改修に集まってきた人夫の多くは老人、女衆です。改修には人手が少しでも多い方が好いのです。男衆がすでに出陣した後の村を任されていた者たちです。

      工事の人夫には食事が用意され、わずかな手当ても与えられていました。なんといっても笛(ふえ)や太鼓(たいこ)で踊(おど)り、音頭(おんど)を取って囃(はや)し立て、皆の力を合わせる作業は汗もうれしいものです。

    • 材木も大量に集まり、櫓(やぐら)は思いのほか順調に建ちあがりました。

      勘解由は家老(かろう)を伴って櫓に上がっていました。眼下には、松任城を囲む濠が広がり、豊かに水をたたえてきらめいています。改修はいち早く仕上がっていました。老いた村人も背筋(せすじ)を伸ばし、女衆も力を合わせ働いたお蔭(かげ)です。

    • (勘解由)
      「これで多くの田んぼに、水を張(は)ることができますね」
      (留守家老)
      「若、よくお気づきになった。この御城の大きな濠にたたえられた水が、大きなため池になることを知って、村ノ衆もあのように喜んでおりますぞ」
    • 年老いた家老は、成長した勘解由の姿をみて、頼(たの)もし気(げ)に目を細めました。

      新しく組み上げた櫓(やぐら)からは、西に日本海を望(のぞ)み、東には遠く金沢御堂(かなざわみどう)の甍(いらか)が輝(かがや)いています。松任城は手取扇状地(てどりせんじょうち)を守る要(かなめ)の城であったのです。

    • 越中では南加賀から江沼・能美二郡の援軍も駆けつけ、辛(かろ)うじて加越国境で越後の猛将上杉謙信(もうしょううえすぎけんしん)を追い返していました。わけても国境(くにさかい)の朝日山城(あさひやまじょう)ではありったけの鉄砲(てっぽう)を揃(そろ)え、一揆勢が激しい銃撃(じゅうげき)を加え勝利するのです。

      久しぶりに松任へ凱旋(がいせん)してきた松任組の兵は、鎧(よろい)も破れ、無精(ぶしょう)ひげに覆(おお)われた顔でしたが、笑顔(えがお)にあふれています。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と墨書(すみが)きされたのぼり旗が、誇(ほこ)らし気(げ)にはためいています。

      城の改修に携(たずさ)わっていた留守衆や女衆が、戦場(いくさば)の塵(ちり)にまみれた夫や息子たちを歓呼(かんこ)の声で出迎えます。

    • (頼信)
      「勘解由、よくやった。見違えるようじゃ、広がったのう見事な濠(ほり)じゃ」
    • 満々と水をたたえる濠は、広く深くなっています。

    • (勘解由)
      「北の上杉勢が攻め込んできても、南から織田勢が手取川を渡り戦(いくさ)となっても、この城は簡単には落とせません」
    • 勘解由は満面の笑みを浮かべ、城に帰ってきた父頼信に向かい改修を報告しました。城の絵(え)図面(ずめん)を広げ、改修したカ所一つひとつを指さし、難攻不落(なんこうふらく)になったことを話します。陽(ひ)に焼(や)け、口ひげをたくわえた父の顔はたくましく、まぶしく見えます。

    • (勘解由)
      「父上、新たに組み上げた櫓の土塁の高さは二間半(約5m)、濠も十三間(約23m)の広さに及びます」
      (頼信)
      「良き備(そな)えに仕上(しあ)がった。松任城は加賀一番の名城じゃのう」
    • 家老の助けがあったとはいえ立派に留守を勤め、短い日にちで城の改修を成(な)し遂(と)げ、父にほめてもらいました。初陣(ういじん)を終えたが未(いま)だ元服(げんぷく)して間もない勘解由は、心の底からうれしいと思いました。

    • 翌、天正(てんしょう)元(1573)年、織田勢が越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻め滅ぼし、越前を占領(せんりょう)します。

      天正二年が明けると、越前一揆衆(えちぜんいっきしゅう)からの援軍(えんぐん)を願う報(しら)せを受けた大坂本願寺では、越前一向一揆総大将として重臣を越前へ下します。金沢御堂からは、武将を付け加賀一揆衆を越前へ送り込み、越前一国を一揆の持ちたる国とします。

      天正三(1575)年夏、織田勢は再び越前に攻め込み、勢いに乗じて加賀の南二郡を占領(せんりょう)してしまいます。

    • (勘解由)
      「父上、宿敵(しゅくてき)上杉謙信殿と同盟(どうめい)するというのは真実(まこと)でしょうか」
    • すでに勘解由も凛々(りり)しい若武者(わかむしゃ)となっていました。

      越前から有力門徒(ゆうりょくもんと)や旧朝倉家家臣が、織田信長勢に追われ、金沢御堂に来ていました。このような情勢に、本山大坂本願寺では上杉謙信と同盟し、織田信長との戦いに備えようとします。北加賀から石川・河北二郡の旗本(はたもと)衆が南加賀に出陣し郷土を守ろうと戦っていました。時に、金沢御堂では戦いの行(ゆ)く末(すえ)に軍議(ぐんぎ)を重ねていたのです。

    • (勘解由)
      「そもそも加賀の旗本衆がこぞって、長年の敵であった上杉謙信殿に降らねばならないのでしょうか」
      (頼信)
      「越前で一揆衆が立ちあがり、占領していた織田勢と戦う一方、金沢御堂へしきりと援軍を求めていた。我ら旗本衆も七里三河様に、上杉謙信様が御出馬(ごしゅつば)することを願い出ておったのじゃ。すでに我らのみでは、織田の侵攻を防ぎ止めることは困難じゃ」
      (勘解由)
      「越前の一揆勢を助けようと、松任組の軍勢と一緒に私も南二郡まで駆け入り、織田方を討破りました。織田勢は大聖寺城(だいしょうじじょう)からは一歩も出ることはできず、落城寸前でありました。わたしも兜首(かぶとくび)を一つ獲(え)ております」
    • ついつい武功(ぶこう)を誇る。勘解由は松任組の中で若武者ぶりを見せていました。

    • (頼信)
      「ふむ、手柄(てがら)であった」
    • 越後との同盟の願いもむなしく、上杉謙信の出馬はついにありませんでした。越前の一揆の戦いは孤立(こりつ)し、織田方によって生け捕りにされた一揆衆は磔(はりつけ)や釜(かま)で焙(あぶ)られ皆殺しにされます。

      越前一揆衆は無念の思いを文字瓦に書き残していました。

    • (勘解由)
      「上杉勢が援軍として出陣していたならば、大聖寺城に籠る織田勢を蹴散(けち)らし越前に攻め入る絶好(ぜっこう)の機会でした。越後からは上杉勢が援軍として出発したとは聞きません、無念です。口惜(くちお)しいことでございます」
    • 勘解由は、父に疑問をぶつけます。

    • (頼信)
      「我らは上杉勢との同盟に異(い)を唱(とな)えているのではない。むしろ願っていた。七里三河様の横暴独断に異議(いぎ)を申しているのじゃ。織田勢に対する備えを進言しても、素知(そし)らぬ風。南加賀二郡に侵入した敵のなすがままに、手をこまねいていた。あれほど進言した上杉謙信様の御出馬も、とうとう機会を逃された。そのうえ、国の行く末は合議のうえ決する約束を無視された。我ら旗本衆の立場を蔑(ないがし)ろにした行いに、腹を立てているのじゃ。我らは、七里三河様の家臣(かしん)ではない」
    • 頼信は持っていた扇子(せんす)をはっしとたたき、空(くう)をにらみつけるのです。

    • (頼信)
      「我ら、総大将として七里三河様を仰ぐこと、もはやできぬ」
    • 天正四(1576)年秋、松任城を白山麓(さんろく)の山内勢が取り囲みます。旗本鈴木出羽守(すずきでわのかみ)率いる山内組(やまのうちくみ)です。七里三河から「松任組の鏑木頼信を成敗(せいばい)せよ」と命じられて出陣していました。この事態に石川・河北二郡の旗本衆が動きます。本山大坂本願寺へ情況を報(しら)せるとともに、金沢御堂(かなざわみどう)の七里三河(しちりみかわ)の独断を訴える書状を送ります。さらに「同志討(どうしう)ちは避(さ)けるべき」と、松任城を囲んでいた山内組と城方との間に割って入りました。

    • 「加賀は、昨年以来混乱状態です。すでに南加賀へ織田勢が乱入しています。本山大坂本願寺から派遣された七里三河(しちりみかわ)様を総大将として仰ぎ、何事も相談してことに当たって参りました。しかし、このたび鏑木殿に反逆(はんぎゃく)ありと決めつけ、山内衆を引きだし松任城に討ち果たそうとされました。鏑木殿の罪は事実無根(じじつむこん)のうえ、事前に我等にひと言の相談もなく処罰(しょばつ)されました。本山においては七里三河様のなされたこと、きっと明らかにされんことをお願い申し上げます。天正四年八月二十一日」と石川・河北二郡の旗本衆は連名で大坂本願寺へ書き送ります。

      書状を手にした大坂本願寺は慌てます。本願寺重臣下間頼純(しもつまらいじゅん)を急ぎ加賀へ送り、七里三河を解任します。本願寺では、金沢御堂の新たな総大将に下間頼純を据え、加賀一向一揆の総指揮を任せたのです。

    • (下間頼純)
      「直ちに、松任組旗本鏑木頼信をゆるす」
    • 天正四年十一月、着任早々下間頼純がなした仕事です。すでに上杉謙信の仲立ちもあって、和解は問題なく進みます。

      金沢御堂の下間頼純を総大将にして、石川・河北二郡の旗本衆、御堂に身を寄せている江沼・能美二郡の一揆衆、越前から亡命していた武将らは、本山大坂本願寺の命令に従って上杉謙信と同盟し傘下に入ります。

    • 天正五(1577)年夏、上杉勢は七尾城を攻めました。八月、信長は柴田勝家を総大将とし、四万の軍勢で七尾城救援の軍を起こします。加賀一揆勢は能美郡の御幸塚城(みゆきつかじょう)を固め、さらに兵を進め粟津口合戦(あわづくちかっせん)で織田勢に対し奮戦(ふんせん)します。

      九月に入ると織田勢は手取川まで進出し、一帯を焼き払います。三日前に七尾城は上杉勢によって落城していたのです。それを知らずに織田勢は北加賀を一息に攻め抜こうとして、手取川を渡り、水島に陣を敷いていました。

      歴戦の加賀一揆勢は、鶴が翼(つばさ)を広げたように横に大きく広がって陣を張り、これを迎えます。一揆勢の背後には強兵である上杉勢が控えています。上杉勢と一揆勢は迅速(じんそく)に行動していました。松任城にはすでに上杉謙信が入城し本陣を設けていたのです。

    • (鏑木頼信)
      「松任城主鏑木頼信にございます。控えるのは子勘解由にござります。御屋形様(上杉謙信)には、この城、存分にお使い下さいませ」
      (上杉謙信)
      「ふむ、聞いておるぞ、そなたが鏑木か。良き構えの城じゃのう」
    • 松任城を本陣とした上杉謙信の前には、一揆勢の指揮官である若林長門を始め、鏑木頼信など歴戦の石川・河北郡の旗本衆がずらりと並んでいます。

    • (上杉謙信)
      「相川(そうご)の浜に、七尾城で討取った首を掲げよ」
    • 謙信の命に応じて、素早く七尾城の重臣長一族(ちょういちぞく)の首が懸けられます。これを見た織田勢は七尾城落城を知ることになります。

    • 柴田勝家は上杉勢がすでに松任城に入ったらしいと聞き、不利を悟(さと)って退却の陣払(じんばら)いを命じました。

    • (柴田勝家)
      「夜、闇(やみ)に紛(まぎ)れて兵を引け」
    • 秋の長雨で手取川は増水しています。松任城に本陣を構えていた上杉謙信は、織田の動きを捉(とら)えました。

    • (上杉謙信)
      「この機を逃がさず、手取川へ追い落とせ」
    • と命を下します。

      松任城内にほら貝が吹かれると、手取扇状地に村ノ道場の早鐘(はやがね)が次々と鳴り響いていきます。

      この夜、織田勢は千名余が討ち取られ、手取川の激流に流されたものも大勢いたといいます。

      戦いは、加賀一揆と上杉勢の大勝利に終わります。

      「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長(信長)」と都の人々のうわさになったそうです。

    • 織田勢が加賀へ攻め込んできて以来、手取川を天然の濠として、五年の月日を一揆勢は必死に戦ってきました。天正五年には手取川を越えてきた織田勢を川の流れに追い落とします。だが、織田勢は停戦の約束を相次いで破り捨て、天正八(1580)年、春、金沢御堂は柴田勝家に攻められ落城します。石川郡一揆の最も強大な戦力松任組を率いた鏑木頼信と勘解由親子は、信仰と自由を守るため金沢御堂に籠城戦(ろうじょうせん)を果敢(かかん)に戦って破れ、討ち死にしてしまいます。

      松任城は鏑木氏に代わって、豪勇を謳(うた)われた若林長門が守っていましたが、秋、柴田勝家によって騙(だま)し討(う)ちにされ落城します。石川郡の象徴(しょうちょう)であった城は、織田方に占領され、この日をもって松任組一揆衆の城塞(じょうさい)としての幕を閉じることになるのです。

    • (2016年9月30日・本文最終稿 にしで やすのぶ)

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